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【体験談+専門家の解説】不登校の子どもたちはどんなことで困っているのか

登進研バックアップセミナー117 in 仙台 第2部講演抄録(2023年9月24日開催)

ゲスト 不登校経験者(Kさん)
司 会 齊藤真沙美(東京女子体育大学・東京女子体育短期大学准教授)
助言者 小林 正幸(東京学芸大学名誉教授)
    荒井 裕司(登進研代表)

きっかけは転校先でのいじめ

齊藤  本日は不登校を経験したKさんをゲストに迎え、当時のお話を聞かせていただきます。人前では話しづらいこともあるかと思いますが、「NG質問は一切ありません」と快く引き受けてくださいました。その貴重なお話をみなさんとシェアできればうれしいです。
Kさん、自己紹介をお願いします。
Kさん  Kと申します。現在38歳で、東京都内にある財団法人に勤務しています。
 当時の家族構成は、両親とひとりっ子の私の3人家族です。現在は結婚して妻と4歳になる箱入り娘がいます。
齊藤  不登校になったきっかけと期間を教えてください。
Kさん  きっかけは、小4の半ばに父親の仕事の関係で転居し、転校先でいじめにあったことです。5年の夏休み中に休みぐせがついたのか学校に行くのが嫌になって、そのまま “インドア生活”に入り、中学卒業まで学校に行くことはありませんでした。
齊藤  不登校中、親子の会話や生活リズムはどうでしたか?
Kさん  親とは普通に話をしていましたが、ずっと顔を合わせているのはつらいので、自分の部屋で過ごすことが多かったように思います。母もそれを察してか、不登校になって間もなくパートに出るようになりました。
 生活は不登校ながら規則正しくしようと意識していて、昼夜逆転はありませんでした。毎朝10時のFMラジオを聴きながら1時間くらい勉強して、11時半からテレビのニュースを観て、12時になったら『笑っていいとも!』を観ながら朝食兼昼食をとり、13時から『大好き!五つ子』というドラマを観る、というのが一日のメニューでした。
齊藤  当初からそんなふうに規則正しい生活を送っていらしたんですね。多くの親御さんがわが子の昼夜逆転をなんとかしたいと悩んでいます。なぜKさんがそんなにちゃんとした生活を送れていたのか、思い当たることがあれば教えてください。
Kさん  やはり「学校に行っていない」という負い目みたいなものがあったので、昼まで寝ているような生活はしづらいというか…。でも、夜中の1時から『オールナイトニッポン』をよく聴いていて、気づいたら3時ということもありました。それでもやっぱり10時には起きて勉強をして、という感じでした。

保健室に君がいると入ってこれない生徒がいる

齊藤  小5から中学卒業までずっと欠席が続いたのでしょうか?
Kさん  不登校になってから何日か保健室登校をしましたが、それ以外は登校していません。卒業証書も保健室で受け取りました。中学校でも入学式には出ましたが、その後は朝になると腹痛が起こったり気分が悪くなり、それにかこつけて休みがちになりました。

 その後、保健室なら行けるかもということで、他の生徒の登校時間とかぶらないように30分ほど遅れて保健室に通いはじめました。ところが、夏休み前のある日、先生に「保健室にいつも君がいると入ってこれない生徒もいる」と言われ、隣の多目的教室に移動させられました。
 広い教室にポツンと取り残されて一日中ひとりで勉強するだけなので、「来る意味がないな」「保健室の邪魔になるくらいなら来ないほうがいいのかな」「学校に来ないでくれというメッセージかな」と感じて、また行かなくなりました。

 当時は、今ほど不登校の問題がポピュラーではなかったせいか、学校側もどう対応していいかわからなかったようで、自分のいる保健室や多目的教室にクラスの子たちが「お昼ごはん食べに教室行こうぜ」と声をかけに来たり、放課後に先生が「もう教室に誰もいないから一緒に行ってみようよ」と誘いに来たり、いろいろ働きかけてくれるんですが、自分としては、そこはほうっておいてほしかったなと思いました。
齊藤  中学校でもいじめが続いたのですか?
Kさん  中学校に進学する際、自分をいじめた生徒に会わないようにと親が配慮してくれて、隣の駅にある別の学区の中学校に通うことになりました。
 でも、いじめがなくなり環境が変わっても、やはり家にいるほうが安心感があるので、朝行こうとすると腹痛が起こったり気分が悪くなったりで、結局、休んでしまう。地元の中学なので、出歩くと知人に会ったりするのが嫌で昼間はほとんど外出しなくなり、学校の終業時間が過ぎたら過ぎたで、また誰かに会うかもしれないので出歩くことはなくなりました。地元から離れた学校ならもっと楽だったのかもしれません。
齊藤  不登校中はずっと家にひきこもっていたのですか?
 人目が気になって夜しか外出できないとか、車で遠くに行くならOKとか、美容院に行けなくて髪が伸びっぱなしとかいろいろな子がいますが、Kさんはどうでしたか?
Kさん  まったく外に出なかったわけではありませんが、小学生のときに転校してすぐ不登校になったので地元に友人がいないこともあり、昼間出かけるきっかけもないですし…。母がパートに出るようになってからは日中は家でひとりだったので、朝食兼昼食を買いにコンビニに行ったりする程度の外出はしていました。

 床屋は、近くにおじさんがひとりでやっている店があったので、そのおじさんに頼んで朝7時頃に行っていました。開店前ですが、「どうしても朝早くじゃないと来れないんです〜」と部活で忙しい中学生みたいなふりをしてお願いしました。自分がいじめられたきっかけが体型的なことだったので(当時はぽっちゃりしていた)、人に会いたくない、見られたくないという気持ちが強く、人のいない時間帯を選んで行っていました。

適応指導教室もカウンセリングも「合わないな」

齊藤  地域の適応指導教室に見学に行ったことがあるそうですが…。
Kさん  中1の担任の先生が、同世代とふれあえる居場所があったほうがいいのではないかと、地元の適応指導教室をすすめてくれて、担任と母と自分の3人で見学に行きました。
 でも、行ってみたら、他の学校の空き教室を利用した施設で、学校っぽいイメージが強いのと、他の学年の子どもたちもいて、当時は人とかかわることが苦手だったので、通う気になれず、結局、そこには行きませんでした。
齊藤  もうちょっと雰囲気が違っていたら通えたかもしれない?
Kさん  そうですね。自分が見学に行ったところは学校内にあったので、とにかく入りにくいという気持ちが強かった。たとえば、フリースクールのようなスタイルで、一軒家とかマンションの一室とかなら自分の気持ちも違ったかなとは思います。
齊藤  カウンセリングにも一度行ってみたとか?
Kさん  母は、適応指導教室がダメなら、カウンセリングに通わせたほうがいいかなと思ったようで、一度だけ母と一緒に精神科のクリニックに行きました。
 クリニックでは、先生がいきなり「何がつらいの?」「何をされたの?」「どうして今、こんな状況になっているの?」「どんな気持ち?」などと質問してきて、その部分についてはふれたくないし、話したくもないことだったので、この先生とは合わないなと思って二度と行きませんでした。これらの経験から、「家にいるほうが安心」という気持ちがより強くなってしまったかなと思います。
齊藤  Kさんがお母さんと一緒に行ったのは、カウンセリングルームのような場所ではなく、クリニック(医療機関)だったようで、医師とカウンセラーではクライアントに対するスタンスが異なります。医師が最初に診るのは「この人は精神科の治療の対象になるかどうか」であり、まず、そこの見極めを行います。そのために初対面でいろいろと質問することもあるわけで、そこがKさんには合わなかったのかなと思います。

原因を取り除けば、問題は解決するのか

齊藤  これまでのKさんのお話に関連して、助言者の方々にいろいろお聞きしたいのですが、まず、不登校の「原因」となったいじめが解消されても、Kさんが登校できなかったのはなぜか。これについて小林先生にお話を伺いたいと思います。
小林  中学校には自分をいじめる生徒はいないのに、Kさんはなぜ登校できなかったのか。しかも、朝になると身体症状が出るから学校に行けないという状態です。理由は明確で、体の症状というものは、今の自分の状況や気持ちについて「説明のしようがない」ときにあらわれます。頭では「行けるはず」でも、体がダメだと言っているわけです。

 いじめは、メッセージ性が非常に強い。「おまえが悪い」「おまえが弱い」「おまえが情けない」「おまえがおかしい」などなどネガティブなメッセージを毎日毎日、陰に陽にいろいろな人たちから与えられる。
 そのメッセージを自分で受け入れなければよいのですが、しだいに受け入れるようになっていきます。なぜなら、仲間に受け入れられたいからです。そして、自分自身でも「自分が悪い」と思い込んでしまうのです。

 たとえば、私がKさんに「おまえはスカイツリーだ」「スカイツリーだ」といくら言っても、彼の身長は634mにはなりません(笑)。でも、そうなったような気になってしまうんです。「一寸法師だ」「一寸法師だ」と言われつづけたら体が3cmに縮むか。もちろん縮まないけれど、縮んだような気分になっていきます。そういう負のメッセージが、それを与えた友だちがいなくなっても自分の中に消えずに残るんです。
齊藤  いじめた友だちがいなくなっても負のメッセージは消えずに残る…。
小林  そうです。そして、「学校に行こう」と思ったときに思い出すのは、学校にいたときの記憶です。そのとき友だちはどう言ったのか、そのとき自分はどう思ったのか。その記憶がくりかえし思い出されます。しかし、いくら思い出されるからといって、現実にはその友だちは学校にいないわけですから、学校に行けない理由が見つからない。

 Kさんは、そんな説明のしようのない状況を体の症状で表現するしかなかった、体が症状というかたちでSOSを出したということだと思います。

 多くの大人たちは「なぜ学校に行けないのか」と原因を探そうとするけれど、原因を取り除いても、その子の頭にこびりついた記憶は消えません。これは決してめずらしいことではなく、「原因を探してそれを取り除いたのだから学校に行けばいいじゃないか」という論理は、ほとんどの場合、通用しません。
齊藤  Kさんの場合、きっかけはいじめでした。では、原因がいじめ以外のことであっても、やはり原因を探してそれを取り除くことでは問題は解決しないのでしょうか。
小林  そうですね。たとえば「担任の先生が怖い」ということで学校に行けなくなった場合でも、担任は1〜2年ごとに変わりますよね。じゃあ、先生が変わったら行けるかというと、やはり行けない。

 そのときに残った記憶は消えてないし、学校に対するイメージも当然悪化しています。学校に対する嫌な感覚がことあるごとに呼び覚まされて、どんどん増幅されていきます。PTSDの患者が、実際に受けたトラウマ(心的外傷)とは異なる状況でも恐怖を感じるのは、そのようなメカニズムによるものです。

「別室登校」という支援のあり方を考える

齊藤  次に私から、先ほど出た保健室登校の話に関連して少しお話をさせていただきます。
 別室登校(保健室登校、相談室登校など)については、そもそも別室登校がその子の状態に合っているのか、別室登校をすることがその子の心身の状態の回復に役立つのか、その子が求めていることなのかといった見極めが必要になります。学校に戻ることだけがすべてではありませんので、本人が何を望んでいるかにもよると思います。

 そのうえで、本人に別室登校をしてみたいという気持ちがあり、先々のことを考えてもそれがその子にとって必要であると判断された場合には、どこでどんなふうに過ごしたらよいかを検討することになります。

 私がスクールカウンセラーをしていたときは、まず、校内でその情報を共有し、本人と保護者の意見を聞きながら、1週間の「どの時間帯に」「どこで誰が対応し」「どんなことができそうか」を相談することから始めました。
 その子は見通しが立っていたほうが安心して学校に来られる状況だったので、「1学期の時間割はこんな感じにしたいと思うんだけど、どうかな?」と確認しながら進めていきました。もちろん学期が変わったり、本人の状態が変われば、その都度、時間割の見直しを行います。

 ただし、こうした詳細な時間割を組むことが、逆にプレッシャーになる場合もありますので、「このやり方をすればうまくいく」とか「このやり方が正しい」といった“正解”はありません。一人ひとりの状態に応じて、その子が求めているものを一緒に探しながらやっていけるかどうか。これがひとつのポイントになるだろうと思います。

 不登校の原因やきっかけはさまざまですが、いずれにせよ学校で嫌な思いをしたのは確実なわけで、「よし、行くぞ」と思って頑張って別室登校をしたときに、またそこで嫌な思いをしたら、おそらくもう来ません。ですから、「行ってよかった」「楽しかった」「いいことがあった」と思えるような経験をさせてあげられるかどうかが重要です。

 そうした具体的な支援内容(保護者への支援も含めて)を学校側がきちんと考えていかなければならないわけで、ただ単に「通えばいい」という話ではありません。ぜひ、本人の気持ちや意向を尊重しつつ、検討していただきたいと思います。

その子に合った居場所を探す

齊藤  今は、不登校の子どもたちが通える学校以外の居場所がたくさんあります。Kさんのお話にも出てきましたが、各自治体には「適応指導教室」(教育支援センター)が設置されていますし、民間のフリースクールなどもあります。
 これらの居場所について、小林先生にお話しいただきたいと思います。
小林  Kさんは、適応指導教室に見学に行ったけれど、「他の学校の空き教室を利用した施設は、学校っぽいイメージがして通う気になれなかった」と言っていました。
 Kさんの言う「学校っぽいイメージ」とは、学校の空き教室など建物のビジュアルもあるけれど、そこにいる人々がかもし出す雰囲気も大きく影響しているように思います。たとえば、自習室でみんなが壁に向かって押し黙って勉強しているような姿は、見学に来た子からすれば「息苦しい」とか「つまんなそう」に見えても不思議はありません。そういう雰囲気をつくり出しているのは、そこで何を大事にしているかというスタッフの姿勢であり、そこで学ぶ子どもたちのまとっている空気なんだと思います。

 私が主宰する「学舎ブレイブ」では、「ゲームOK時間」というのを設けています。そんなフリースクールはめったにないので、「だからここを選んだ」という子が大勢います。彼らは「ゲームOK時間」が終わると一斉にコントローラーをオルガンの上に置き、「ありがとうございました!」とコントローラーに一礼してから勉強に戻る(笑)。そして、私たちスタッフはそれをニコニコ笑って見ている。こんな雰囲気の場所だったら、Kさんも通う気になったかもしれないなと思いました。

 もちろんどんな居場所でも合う合わないはあるし、合わなければ無理に合わせる必要はありません。本人に確認して「ここは嫌だ」「行きたくない」と言うのなら、それでいいんです。「嫌なら無理して行かなくてもいいんだよ」と言ってくれる人がいれば、どんなところに見学に行っても、その子にとって嫌な体験にはならないと思います。
齊藤  今は本当にいろいろなタイプのフリースクールがあり、勉強やリクリエーション、個別活動や集団活動など、いろいろなプログラムが用意されています。毎日通わなくてもいいし、火曜日のこのメニューが好きだからそこだけ行くというのでもOKですから、お子さんと見学に行ったりして自分に合った居場所が見つかるといいなと思います。

カウンセリングを受けるのはなんのため?

齊藤  私のほうからは、カウンセリングについてお話をさせていただきます。
 よく親御さんから「カウンセリングを受けさせたいけど子どもが嫌がる」という悩みをお聞きします。カウンセリングを受けたら元気が出るかもしれない、学校に行く気になるかもしれないと期待する気持ちはよくわかります。
 しかし、カウンセリングを受ければ必ず学校に行くようになるわけではありませんし、「学校に行けるようになるために」カウンセリングを受けても、結局、続かなかったり、うまくいかないことが多いのです。

 カウンセリングというと、その子と相談員が解決すべき問題についてずっと話し合っているようなイメージがあるかもしれませんが、そんなことはありません。小中学生の場合は、「プレイルーム」という遊びのアイテムをいろいろ揃えた部屋でトイセラピーとよばれるかかわりをすることもあります。


 私が担当した中1の不登校の女の子は、週1回、必ず相談室にやってくるのですが、毎回、学校のことは一切話さず、2年半もの間、私とモノポリーというボードゲームをひたすらやりつづけました。それがカウンセリングかといわれたら説明が難しいのですが、今ふりかえると、第1部の講演で小林先生がおっしゃった「肯定的なかかわり」のようなものがモノポリーの中でできていたのかなという気がします。

 たとえば、彼女がゲームでミスったり負けて嫌な思いをしたときは「あ〜、悔しかったね〜」「ガッカリしちゃったね〜」、反対に勝ったときは「すごい! 勝ったね、うれしいね」「でも、私は悔しいな」というように、本人が好きなゲームを共有しながら、彼女の気持ちを言語化して伝える作業を続けていたように思います。

 そうしたかかわりの中で、彼女のようにモノポリーをやりつづけたり、絵を描くことで自分の内面を表現し気持ちを整理していく子もいます。その結果、自分がどうしたいのかが見えてきたり、同世代とのつながりができるなど、いろいろな変化が起こります。その変化のひとつとして「学校に行く」ことにつながっていく場合もあります。

 一般に、不登校の子どもが自分から相談の場に足を運ぶことはめったにありませんが、その場合はお母さんお父さんが相談にみえるだけで十分です。わが子にどう対応すればいいのかを相談してもいいし、親自身の不安や苦しさを吐き出すのもいいと思います。そうして親の気持ちが少し楽になり余裕が出たり、自信をもって子どもに対応できるようになると、それが結果的に子どもにとってプラスの方向に働くと考えてください。

「消えたい」という思いと、「変わりたい」という思い

齊藤  Kさんのお話に戻ります。不登校中はどんなことを考えていましたか?
Kさん  不登校中によく思ったのは、「消えてしまいたい」ということでした。痛いのは嫌なので、どうしたら楽に死ねるだろうとよく考えていました。ひとりで家にいるときに包丁を握りしめて、でも、「やっぱり痛そうだな」とためらったり…。

 一方で、「いやいや、おまえ何やってんだよ。変わらなきゃ」という思いもありました。当時、午後1時から『大好き! 五つ子』という同年代の若者たちの悩みや不安、喜びを描いたドラマを観ていて、「やっぱり学校に行けば楽しいんだろうな」「ドラマの人たちみたいに変わりたいな」という気持ちは強かったです。でも、現実には学校に行っても友だちはいないし、勉強にもついていけないし、という不安があって…。
 そういうマイナス要素が取り除ければ学校に行きたいな、という気持ちはありました。矛盾している2つの気持ちが拮抗している時期だったと思います。
齊藤  そのときの気持ちをご両親に伝えましたか?
Kさん  母はけっこう短気な人だったので、こういう話をすると最終的に言い合いになってしまうんです。父は話しづらいというか、今はなんでも言える仲ですが、当時は父とかかわることがほとんどなく、気持ちを伝える機会はなかったかなと思います。
齊藤  ご両親の対応で、うれしかったこと、嫌だったことがあれば教えてください。
Kさん  不登校になって間もなく母がパートに出たのですが、今でもたまに「あなたと5年間ベッタリつきあわないでよかったわ。仕事をしていたからストレス発散できたのよ」と言われます。なんで今さらそんなことを言われなきゃならないんだろう(笑)と思うんですが、当時、母にとっては私が家にいること自体が悩みのタネだったのでしょうからパートで不安を発散していたのかもしれません。私自身にとっても、家に自分以外誰もいないことは楽でした。ひとりでいてもいいんだということが精神的に楽でした。
齊藤  お昼ごはんは、たいていコンビニのお弁当?
Kさん  不登校になった当初は、母がパートに出かける前に昼食用の弁当を作ってくれたり、弁当を買っておいたりしてくれたのですが、仕事が忙しくなってくるにつれて外に弁当を買いに行くことも増えました。どちらがいいかと聞かれたら、正直、コンビニ弁当のほうが美味しかった(笑)。母の弁当はレパートリーが少なくて、昨日の夕飯がそのままスライドしていたりするんです(笑)。

 とはいえコンビニの店員さんの目も気になるので、「この子、毎日来るな」と思われたくないわけです。なので、月曜はサンクス、火曜はファミリーマート、水曜はセブンイレブンとローテーションを組んで行く店を変えてみたり、逆に「自分は毎日この時間にこの店に弁当を買いに来る事情があるんです」というストーリーを自分の中で勝手に作り上げて、そういう顔をして買いに行ったりしていました。

お母さんも「自分のための時間」を

齊藤  Kさんが不登校になったとき、お母さんはわりと早めにパートに出て「よかったわ」とおっしゃっているそうですが、逆に「仕事をやめたほうがいいのかな」と悩むお母さんも多いと思います。これについて、荒井先生からアドバイスをお願いします。
荒井  子どもが不登校になると、お母さんがパートに出るのをためらったり、それまでフルタイムで勤めていた仕事を「やめようかな」と迷ったりすることが非常に多いと感じています。「もっと子どもと一緒にいる時間を増やさないといけない」「子どもが大変なときに仕事なんかしている場合じゃない」と思いつめてしまうお母さんも多いのです。

 子どものほうも、自分が不登校になったせいで、「両親に迷惑をかけている」「つらい思いをさせて申し訳ない」という自責の念や罪悪感でいっぱいになっています。そんなときに、母親が仕事をやめたりすれば、「自分のせいだ」「お母さんは僕のために自分を犠牲にした」という思いでいたたまれなくなります。

 そのうえ、仕事をやめて一日中家にいるようになると、子どものよくないところばかりが目についてイライラや心配がつのり、お母さんから笑顔が消えていきます。そんなお母さんを見て、子どもはますますつらくなるという悪循環におちいります。

 私は、ぜひお母さんにどんどん外に出てほしいと思っています。仕事でも趣味や習い事でも、友人とのランチでも、自分が元気になれる「自分のための時間」を作り、心をリフレッシュしてください。そんなお母さんを見て子どもは気持ちが楽になり、新しい一歩を踏み出すエネルギーがたまっていくはずです。

 先ほどご紹介した『不登校の歩き方』という本に、こんなお母さんの言葉があります。
 「最初はふたりしてよく泣いたね。君と一緒にひきこもりにもなったけど、このままじゃいけないと思ったから、お母さんは君より先に卒業して働きに出ます」
 お母さんは先に行くよ、君も自分のペースでいいから外に出ようよ。待ってるよ。
 そんなお母さんの思いが伝わってくる言葉だと思います。

子どもが「死にたい」と口にしたときは

齊藤  私からは、Kさんが「消えたい」と「変わりたい」のはざまで葛藤していたときの心の状態とそれに対する親の対応についてお話ししたいと思います。

 不登校のわが子から「消えたい」「死にたい」といった言葉が出てくると、親としては心配で心配でたまりませんよね。ただ、これは本当に死にたいわけではなく、「それくらいつらい」「死んでこのつらさから逃れたい」ということだろうと思います。その一方で、「今のままではいけない」「変わらなきゃ」という思いもあって、すごく複雑な気持ちでいるのではないかと思います。

 覚えておいていただきたいのは、「つらい」「しんどい」といった不快な感情は、言葉で表現し、それを誰かに受けとめてもらうことで発散されるということです。子どもが「死にたい」と口にしたときは、「そんなことを言うもんじゃない」「死んでどうなる」といった対応でその感情を封じたり否定するのではなく、その子のつらさ、しんどさに寄り添い、「そうか、あなたは死にたいほどつらいんだね」とその思いをしっかり受けとめてほしいのです。

 「消えたい」と「変わりたい」の間で揺れている子どもが、新たな一歩を踏み出そうとするときに大きな力になるのは、「自分は自分のままでいいんだ」という思いです。そして、そう思えるかどうかは、家族や先生が「あなたはそのままでいいんだよ」というメッセージをいかにうまく伝えられるかにかかっているような気がします。

 このセミナーで、わが子の不登校を経験したお母さんにお話を伺ったとき、それまでよく笑う子だったのにまったく笑わなくなり、心療内科でもらった薬をのんでいたら「チョウチョが飛んでいる」とか言い出して、そのとき、お母さんは「この子が生きているだけでいい」と思ったと話してくれました。そして、その瞬間から子どもへの対応がなんとなく変わり、お子さんも落ち着いてきたそうです。

 私たちは「成績がいいから」「スポーツが得意だから」「〇〇ができるから」といった部分で子どもを評価しがちですが、ありのままのその子、今そこにいるその子としっかり向き合うことこそが、その子とかかわる私たちに求められているのかなと思います。

 なお、子どもが「死んでしまいたい」と言ったとき、親御さんがいちばん気がかりなのは、それを実際に行動に移してしまったら…ということでしょう。その危険性がある場合には、医療機関や専門機関できちんとケアする必要があります。気になることがあったら、ぜひ医師やカウンセラーにご相談いただきたいと思います。

動き出すきっかけは?

齊藤  Kさんのお話に戻りますが、不登校状態から動き出そうというとき、何かきっかけになったことはありますか?
Kさん  中学校で保健室登校をやめてしまった後、学校からの指示でカウンセリングを勉強中の女性の大学生が、メンタルフレンドとして週1回1時間、家庭訪問に来てくれるようになりました。最初のころはその先生と30分くらい世間話をして、あとの30分は英語が堪能な先生だったので、英語の勉強を見てもらっていました。

 当初は先生と部屋で2人きりになるのが不安だったので、母に同席してもらっていましたが、信頼関係ができるにつれて先生との会話を母に聞かれるのが恥ずかしくなり、後半は母には抜けてもらいました。

 ある日、その先生が「キャッチボールをしようよ」と外に連れ出してくれて、先ほどの齊藤先生のモノポリーの話じゃないですけど、そのことが動き出すひとつのきっかけになったかなと思います。小学校で野球をやっていたこともあり、だんだん調子にのってきて、「じゃあ、遠投してみよう!」と近くにある大きな公園に移動し、先生に20〜30m先に立ってもらって投げたり、すごく楽しかった記憶があります。
齊藤  遠投ができる女性ってなかなかいませんよね。

 高校進学についてはどんなふうに考えていましたか?
Kさん  不登校中は朝10時のFM放送を聴くことから始まり、毎日同じような生活リズムで過ごしていましたが、中2、中3と時間が経っていく中で、メンタルフレンドの先生とも「そろそろ高校の進学先を考えないといけないね」と話し合っていました。

 ちょうどそのころ父がサポート校のパンフレットをいくつか見せてくれて、「こういう学校はどうなの?」と提案してくれました。自分でもそろそろ動き出さなきゃと思っていたので、そういう学校があるならと、メンタルフレンドの先生と母と3人で見学に行きました。それが高校進学に向けて動き出すきっかけになった気がします。

 メンタルフレンドの先生の働きかけと、父からの進路情報の提供が、いいタイミングで重なったのかなと思います。
齊藤  もしかしたらお父さんは、もっと前からパンフレットを用意していたのかもしれないけれど、タイミングを見はからって出してくれたのでしょうね。
 何校か見学に行き、その中でこの学校に行こうと決めた理由はなんですか?
Kさん  3校くらい見学しましたが、決め手になったのは野球部があることです。パンフレットで野球部の写真を見て、ここに行きたいと思いました。
 不登校中、中2か中3の頃にちょうどテレビアニメ『タッチ』(高校野球がテーマのラブコメ)の再放送をやっていて、自分も高校で野球をやってみたい!と強く思いました。とにかく野球がしたかったな〜と、当時をふりかえって思います。
齊藤  慣れない通学や学校での人間関係で苦労はありませんでしたか?
Kさん  小学校のときにいじめられた相手が親しい友人だったので、その後、人間が信じられなくなったり怖かったり、マイナスのことしか考えられなくなりました。

 でも、メンタルフレンドの先生と世間話をしたり、信頼関係を築いていくうち、人とのコミュニケーションって楽しいものだなと思うようになりました。メンタルフレンドの先生は大学生だったので年齢的にも自分と近くて、そういう人とコミュニケーションがとれたことが自分にとっては大きかったと思います。

 サポート校で同じ不登校経験をした生徒や同じような悩みを抱えている生徒と話をして、自分だけじゃないんだと思えたことも安心材料につながりました。そこから自分の考え方が変わっていった気がします。先生方が、不登校を経験した生徒への対応の仕方をよくわかっていたので、そのあたりも自分の人間形成というか、生き方のようなものが変わるきっかになったかなと思います。
齊藤  人とのさまざまな出会いによって、ご自身が変わったということですか?
Kさん  小5から学校に行けず、電車通学もしたことがなかったのに、高校には休まず通っていました。ただひとつ、体育合宿などの宿泊行事だけは参加できませんでした。小4のときに2泊3日の移動教室に行ってホームシックになったことがあり、それ以降、家を離れることに不安を感じるようになったのです。それが尾を引いていて、楽しかった高校3年間のうち、宿泊行事だけは参加できなくて残念でした。

 先生方は生徒一人ひとりの個性を見抜く力に長けていて、私の性格や個性を理解したうえで、学校生活の中で私に合った役割を与えてくれました。たとえば、私は人前に出て話をすることがあまり苦ではなかったので、「じゃ、学級委員ね」と言われて、いつの間にか「リーダー」と呼ばれるようになり、そこから「リー」というあだ名がつきました。今でも当時の友人にはリーと呼ばれています。
齊藤  学習の遅れは気になりませんでしたか?
Kさん  小5の途中から学校に行ってないので、入学時はほぼ小学生レベルの学力しかありませんでした。家で独学で勉強していたとはいえ、やはり限界があります。
 クラス編成が習熟度別になっていたので、まずはいちばん初歩のクラスで基礎学力をつけることから始めました。足し算・引き算から学び直し、国語も古文とは何か、漢文とは何かというところからのスタートです。その中で一歩一歩無理なく力をつけていくカリキュラムが組まれていたので、学習面でのつまずきはありませんでした。
齊藤  やっぱり高校生活は楽しかった?
Kさん  ものすごく楽しかったです。中3まで不登校をしていて自分の中で唯一後悔があるとすれば、学校行事でみんなと盛り上がったりするような、いわゆる「青春」というものを経験できなかったことです。文化祭や体育祭も経験できなかったし、その準備などで友だちとふれあう機会もありませんでした。

 その反動なのか、高校に入ってからは、あれもやってみたい、これもやってみたい、といろいろなことに挑戦しました。中学時代に普通の中学生が経験することをやれなかった後悔はありますが、逆に、それを取り戻そうと高校時代に一気にいろいろなことに挑戦できたので悔いはありません。

「入れる」高校より、「通える」高校

齊藤  荒井先生、Kさんが進学したサポート校とはどのような学校なのでしょうか。
荒井  Kさんが、サポート校での生活を「ものすごく楽しかった」と話していたのが印象的でした。まさにサポート校とは、不登校だった子どもたちが「学ぶ楽しさ」「人とかかわる楽しさ」を経験し、次のステップに進むための力を育む学校だからです。
 授業に限らず学校生活のさまざまな場面で成功体験を積み上げて自信をつける、人間関係に苦手さを感じる子どものために友だちづくりをサポートしコミュニケーションスキルを育むなど、一般の高校では手の届きにくいきめ細かな配慮がなされています。

 小5から中3まで学校に行けなかったKさんが、サポート校には休まず通っていたとのことですが、この「通える」「通いやすい」という要素は、不登校の子どもたちにとって非常に重要です。

 学校に行けなかった自分へのリベンジマッチとして少しでも偏差値の高い高校に入りたいという子もいますが、そこでまた行けなくなり二重に傷つく場合も多いのです。それよりも「楽しく通いつづけられる」ことを優先してほしい。学校に通うことではじめて、クラスメートや部活の仲間など人との出会いが生まれ、社会性が育まれ、さまざまな可能性が広がっていくわけですから。
齊藤  最近、通信制高校も不登校の子どもたちの進路先として人気がありますね。
荒井  そうですね。サポート校と同じく不登校の子どもたちを積極的に受け入れている学びの場として、最近、注目されているのが通学型の通信制高校です。

 ひと口に通信制高校といっても、校風や教育方針など各校さまざまですが、たとえば私が学園長を務める広域通信制高校(さくら国際高校)では、文化祭、体育祭、音楽祭、スキー授業など、一年を通してたくさんの行事や体験授業を実施し、学校生活の楽しさを味わってもらうとともに、授業以外のさまざまな活躍の場を用意しています。

 四則計算や九九など小学校低学年で学ぶべきことが抜け落ちている生徒も多いので、一人ひとりの進度に合わせて自分のペースで学べること、「わかる!」「できる!」という楽しさを経験してもらうことを大切にしています。コース選択制や選択授業なども取り入れ、その子の好きなこと、得意なことをできるだけ生かせるようなカリキュラムを工夫しています。

 通学型の通信制高校やサポート校などの教育システムが、今、注目をあびているのは、子どもたちを学校に合わせようとする既存の学校制度に対して、逆に学校が子どもたちのニーズに合わせて柔軟に対応しようと頑張っているからです。

 たとえば、通学時間。不登校の子どもたちは、起立性調節障害に悩まされている子も多く、ラッシュアワーの人混みにもまれて通学するのが苦手な子も少なくありません。だから、始業時間は一般より遅めに設定し、それでも無理なら「いつでも自分が来られる時間に来ればいいよ」「今日が無理なら来れる日に来ればいいよ」と言っています。それができるのは通信制だからです。休むことに対してずっとプレッシャーを感じてきた子どもたちは、それだけでものすごく気が楽になります。プレッシャーから解放されると、逆に「学校に行きたくなる」といった現象が起こったりもします。

 先に申し上げましたが、ひと口に通信制高校、サポート校といっても学校によって校風、教育方針などもさまざまですから、その子に合った進路選びのためにも、できればお子さんと一緒に直接学校に足を運んで、自分の目で確かめることをおすすめします。

「斜め上の関係」が動き出すきっかけに

齊藤  Kさんが動き出すきっかけとしてメンタルフレンドの存在を挙げていましたが、このような支援者の存在がどんな役割を果たすのか、小林先生にお聞きしたいと思います。
小林  よく「斜め上の関係」という言い方をしますが、本人より少し上の世代のこのような存在を「メンター」、メンターによる支援を「メンタリング」とよびます。
 メンターとのつきあいはメンタルフレンドに限らず、たとえばスクールカウンセラーが家庭訪問をしてくれたり、あるいは少し年上のいとこがやってきて、ちらっと勉強をみてくれたり遊んだりというような、斜め上のちょっと憧れる存在、そういう人がすごく大きな働きをすることは本当によくあります。

 現在、私の適応指導教室で働いているスタッフのうち2人は不登校経験者なんですが、彼らは子どもとのかかわり方が非常にうまい。絶対に傷つくことを言わないし、自分がされて嫌だったことは絶対しない。はたから見ると頼りない感じもするけれど、子どもからすれば、自分と同じ土俵に立って、自分の気持ちやつらさをよくわかってくれて、でも、ちょっと年上で相談相手にもなってくれる。そのうえゲームで対戦すると思いきり負けてくれるので大人気です。こういう存在は本当に大事だなと思います。

 ちょっと脇道にそれますが、Kさんのこれまでの流れを伺って思ったのが、いい方向に展開するときは、いい人がいいタイミングであらわれるということです。これはどんなケースでもそうなんですが、これまで何をやっても動かなかったのに、なぜこんなにいいことばかり起こるのかと笑っちゃうくらい重なる。そういう時期が訪れます。上昇気流に乗ったら、そのまま乗って行けばいい。これは狙ってできることではないし、何がよかったかといわれても、「いろんなことがよかった」としか言えませんが…。

あなたにとって不登校の意味は?

齊藤  Kさん、その後、大学に進学するわけですが、受験で苦労されたことはありますか?
Kさん  大学受験に際して、先生から「成績もいいし、今から受験勉強をするよりは推薦枠のある大学に行ったら?」とすすめられましたが、推薦で入学するのは嫌でした。なぜなら、先生方の手厚いサポートで甘やかされて3年間を過ごしたという思いがあり、もっと勉強して浪人してでもさらに上の大学に行きたいと考えていたからです。

 その頃は進学クラスに在籍していたので、「学力的にもまあまあいけるんじゃないか」と思っていたのですが、実際に予備校に通いはじめたら授業にまったくついていけず、井の中の蛙だったことを思い知らされました。これはかなり頑張らないと落ちこぼれになるなと危機感を抱いて、毎日、予備校の教室のいちばん前の席に陣取り、とにかく先生の話を一所懸命聞くことに集中しましたが、偏差値はなかなか上がりませんでした。

 結局、浪人することになったんですが、なんとか自分でも納得のいく大学に入学できました。授業では、普通の大学生なら知っていて当然の知識がけっこう抜け落ちていることがわかり、血液にヘモグロビンが含まれているといった中学生レベルの話でも「え! そうなの?!」という具合で、知識面ではいろいろ苦労しました。

 でも、大学の授業で必要なのは知識だけじゃないし、知らないからこそ学ぶべきことはたくさんあるので、不登校中のブランクが大学の勉強に影響したことはとくになかったかなと思います。
齊藤  現在のお仕事やご家族との生活について教えてください。
Kさん  大学では社会福祉を専攻し、教員免許も取得しました。卒業後は福祉や教育を主としている企業に就職し、そこに6年間在籍した後、現在勤務している財団法人に転職しました。今はそこで日本文化の普及・振興にかかわる仕事をしています。

 プライベートでは7年前に結婚し、今、4歳になる娘がいます。たまに「ママのほうが好き」と言われてすごく傷つく(笑)という経験をしています。
 今日、話の中に出てきた両親ですが、母は2年前に病気で亡くなり、父はおかげさまで健康で仕事も退職し、悠々自適。たまに孫の面倒をみてもらっている日々です。
齊藤  それでは最後の質問になりますが、今ふりかえって、Kさんにとって不登校経験とはどのような意味があると感じていますか?
Kさん  不登校という壁にぶつかったことで、自分自身とゆっくり向き合う時間がとれたと思っています。そうした時間の中で「弱い自分」というものを理解できました。

 ひとりぼっちで過ごす時間の中で、学校や社会に置いていかれる焦燥感にかられましたが、メンタルフレンドの先生をはじめとする人とのかかわりを経て、「あ、人とかかわることってすごく楽しいんだ」と気づきました。先ほどの小林先生の「上昇気流」の話のように、うまくいくときはほんとにうまくいって、人とかかわることに感謝できるようになり、そこは180度、自分の性格が変わったなと思っています。

 今日、みなさんの前でお話しして、最後に伝えたいことはなんだろうと考えたとき、「不登校だったから自分は社会生活に向いてないんじゃないか」とか「今さら頑張っても、もう人生は変えられないんじゃないか」と思っていたこともあったんですが、絶対にそんなことはなくて、諦めたり不安にかられる必要はないんだということが、当事者の子どもたちや親御さんに少しでも伝わったらいいなと思っています。

どんな自分でありたいか

齊藤  Kさん、貴重なご経験をたくさん聞かせていただき、ありがとうございました。最後に助言者の方々から、本日の感想やまとめのコメントをお願いします。
小林  今、Kさんから「不登校の意味」についてお話がありましたが、21世紀になってから、いわゆる進路相談、現在は「キャリアカウンセリング」といいますが、その様相がガラッと変わりました。従来のような「どういう人になりたいか」ではなく、「どういう人でありたいか」に変わってきたのです。

 人生100年時代に達しようかという今、多くの人が仕事をリタイアしてからン十年、うっかりすると30〜40年も生きるわけです。そのときに最後に突きつけられるのが、「どんな自分でありたいか」というテーマです。

 変化のめまぐるしい現代では、企業の寿命は思いのほか短く、ほとんどが30年以上もたないといわれています。ですから、「なりたい自分」にこだわっているかぎり、自分の「人生の意味」は見つけにくいということになります。

 どんな自分でありたいか――キャリアカウンセリング理論の世界的リーダーである心理学者のサビカスはこう言っています。
 「小学校3年生くらいまでにあなたが憧れた人は誰でしたか?どんな人だったかを形容詞で言ってみてください。強い人、正直な人、やさしい人…?それがあなたが『ありたい人』のはずです」

 憧れた人はマンガの主人公でもなんでもいいのですが、これ、少なくとも私の場合は当たっていました。どんなふうに当たったのかは秘密です(笑)。
 先ほど、Kさんが日本文化の普及・振興の仕事をされていると聞き、「三つ子の魂百まで」じゃないですが、ひょっとして小さい頃、何かを世界に広めていくような人に憧れたのではないか。今、それを実現しているのではないかと思った次第です。
齊藤  私は小さい頃、『Dr.スランプ』のアラレちゃんが好きだったんですが…(会場爆笑)。
荒井  すいません。笑ってしまって話ができないんですが気をとり直して、Kさん、本日のセミナーにご協力いただきありがとうございました。
 「本当に不登校だったの?」と聞きたくなるくらい明るくて笑顔がいっぱいで、その笑顔にたくさんの方が元気をもらったのではないかと思います。その一方で、お話の内容は体験者として実に重みがあり、心にずっしりと響きました。

 Kさんは、当時、お母さんの動きを本当によく見ていたな、理解していたなとも感じました。もしかするとお母さん自身よりもお母さんのことをよく理解し、心配をかけないように、負担をかけないようにと、気を配っていたのではないでしょうか。

 サポート校時代に「青春」ができた、ものすごく楽しかったという話を聞き、心からよかったなあと思いました。当時は不安でできなかった宿泊合宿、泊りがけの旅行も、今はぜんぜん平気とのことで、仕事で国内外に出張することもよくあるそうです。
 あらためて、本当にありがとうございました。
齊藤  最後に私のほうから簡単に感想を申し上げます。
 Kさんのお話をお聞きして思ったのは、支援者としてかかわる私たちも「自分はどうありたいか」を考えることが大切なんだろうなということです。

 第1部で小林先生からお話のあった「こころの健康QOL」に関係の深い「笑う」ということについても、私自身、しんどいときは自然に笑顔が出てくることなどまったくありません。ですから、自分自身が今どんな状態で、どんなコンディションでいるかが、人とかかわるうえでは非常に重要なのだろうと思います。これは親御さんにとっても、親として「どうありたいか」、また、ひとりの人間として、ご自身の人生として「どうありつづけたいか」ということと関係してくるような気がします。

 おそらく私たちが、心地よく、楽しく、「人とかかわるっていいな」「生きてるっていいな」と感じて過ごしていれば、それは自然と相手に伝わるものだろうと思います。
 今日、Kさんのお話を伺って、こんなふうに自分自身のことを省みるよい機会になりました。参加者のみなさんも、Kさんのお話から何かヒントを得たり、ご自身の生活に生かせるものがあったり、少し気持ちが楽になったりしたら、とてもうれしいです。
 最後にKさんに大きな拍手をお願いします。ありがとうございました。

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