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発達障がいの子どもたちの進路選択と問題点 第一部

パネラー 土井さん(発達障がいの息子さんをもつお母さん)
山口さん(発達障がいの息子さんをもつお母さん)
水野 薫(福島大学大学院教授)
伊藤寛晃(翔和学園講師)
原 聡子(代々木カウンセリングセンター カウンセラー)
司会 海野 千細(八王子市教育委員会学校教育部学事課長)

※2人のお母さんのお名前は仮名、その他のパネラーおよび司会者の肩書きはセミナー開催時のものです。
※発言内容は2004年9月現在のものです。情報等が古くなっている場合があることをご了承ください。

第1部 子育てで悩んだこと、心がけてきたこと

発達障がいと診断されたときの親の気持ち

海野  本日のパネラーのみなさんを紹介します。
 まず、発達障がいともつお子さんのお母さん、土井さんと山口さんに来ていただきました。おふたりのお子さんは、現在、高校卒業後の発達障がいのある若者たちに社会性やソーシャルスキルを高めるための指導を行っている「翔和学園」という教育機関に通っています。今日は、このおふたりの子育てに関する体験談を聞かせていただきながら、発達障がいの子どもたちとのかかわり方について考えていきたいと思っています。
 次に、翔和学園で指導にあたっている伊藤先生、お隣が代々木カウンセリングセンターのカウンセラーで、翔和学園のスクールカウンセラーでもある原先生、そして、本日、最初に講演をしていただいた福島大学大学院教授の水野先生。この3人の先生方には、2人のお母さんのお話の合間に適宜コメントや解説をしていただきます。
 ではまず、2人のお母さんから、お子さんについて紹介していただきましょう。
土井  うちの息子は現在19歳で、翔和学園の2年生です。
 幼少の頃に自閉傾向があると診断されましたが、小学校に入学してからはLD(学習障がい)、中学生になってからはLDを併せもつADHD(注意欠陥多動性障がい)、そして、昨年は軽いアスペルガー症候群と成長するにつれてさまざまな診断名がつけられてきました。
山口  私の息子は現在22歳で、今年3月に翔和学園を卒業しました。
 小さい頃、とくに言葉を話し始める頃から、ちょっと発達が遅れているなと気づいて、親として悩んだり落ち込んだり、大変な思いをして育ててきましたが、うかつにも「発達障がい」という明確な認識はありませんでした。昨年、翔和学園の伊藤先生のすすめで診断を受けたところ、軽度の知的障がいがあることが20歳を過ぎてからわかったという状態です。
海野  山口さんの場合は、なんだかよくわからないけれど育てにくさを感じながら、ずっと過ごしてきたという感じだと思います。一方、土井さんの場合は、いろいろな診断を受けてきたわけですが、診断を受けるに至った経緯や、診断を受けたあとのお気持ちは?
土井  最初に診断を受けたのは、小学校に入学する直前です。私もどことなく自閉傾向があると感じており、入学前に「就学相談」を受けたほうがいいとアドバイスされて、通っていた幼稚園で就学相談を受けました。そのときのお医者さんは、自閉傾向のある発達障がいという診断でした。
 その後も家の近くの病院の小児科などで診断を受けましたが、そのたびに違う診断名がつけられました。小学校時代はずっと通常学級で過ごしていましたが、中学入学後は発達障がいの子どもたちをサポートしてくれる教育機関に学校と並行して通い始めました。
 診断後の気持ちとしては、幼い頃からあまりにもいろいろなことがあり、ずっと普通ではないなと思っていたので、ショックというよりは、「やっぱり!」という思いのほうが強かったです。主人のほうは、最初の頃はかなりショックだったようで、子どもを抱きしめて泣いていました。

「とにかく落ち着きのない子で」「忘れ物がすごかった」

海野  小さい頃からお子さんについて気になっていたのは、どんな点ですか?
土井  小さいときは、自動ドアやカルタにこだわったりしていました。幼稚園に入ってからは「11時半の男」と言われるようになり、毎日11時半になると幼稚園の教室を抜け出して、園庭の遊具で一通り遊んで、教室に戻るとちょうど給食の時間になっているという具合だったようです。
 こんなふうに非常に落ち着きのないのが特徴で、小学校低学年の頃は授業中に席にじっと座っていられないことが多かったです。ところが4年生くらいになると、まわりが見え始めたせいか、今度は急におとなしくなってしまって、二次障がいに相当するのかどうかわかりませんが、いじめなどによって大きな不安を感じるようになってきました。
 教科では、とくに算数が苦手でした。みんなについていけなくて自分でもなんとかしたいと思っていたんでしょうね。ある日、私に「10円ちょうだい」とねだるので、どうするのかと思ったら、それを持って神社に行き、さいせん箱に10円玉を投げ入れ、「算数ができますように!」とお願いしていました。
 その頃、不安からごはんも食べられないような状態が1年くらい続いて、非常にやせました。担任の先生に相談したところ「算数恐怖症」と言われてしまって……。5~6年のときは、1~2年のときに担任だったやさしい先生が再び担任になったので、少しずつ落ち着いていったという感じです。
海野  苦手な科目について、ご家族で特別な指導をされましたか?
土井  小3までは、私自身、算数ができなくてもさほど気にしていなかったのですが、4年生になってからは本人も非常に気にし始めたので、学校からもらってきたプリントの割り算を、私と一緒に200問くらい解いたりしました。また、小2のときから言語療法の先生に指導を受けていたのですが、その先生に算数と国語の勉強のサポートをしてもたっていました。
海野  お父さんが一生懸命勉強を教えたりするご家庭もあるようですが?
土井  主人は、子どもに障がいがあることを認めたがらないところがあり、私が疲れたときなどは、主人に教えてもらったりしましたが、すぐ怒るので、息子も「パパは嫌だ」と感じていたようです。そのため主人は、勉強についてはほとんど子どもとかかわらなくなってしまいました。
海野  山口さんのお子さんの場合、学校に入ってから気になったことは?
山口  小さいときに言葉の遅れがあったので、2歳くらいのときと、就学前の6歳のときに、療育センターで脳波を検査してもらったところ「異常なし」ということで、通常学級に進みました。しかし、学習面の遅れには苦労しました。
 生活面では、とにかく落とし物と忘れ物がすごかった。たとえば、保護者会があると、担任の先生から「紙袋をもってきてください」と言われるんです。「どうしてだろう?」と思いながら学校に行くと、教室の隅に段ボール箱が置いてあって、「お母さん、この中のものはすべて山口くんのものですから、ぜんぶ持って帰ってください」と毎回言われるようになりました。
 小学校高学年のとき、クラスの女の子から「山口くんのお母さんへ」という手紙をもらったこともあります。「いっぱいになった山口くんの落とし物と忘れ物をなんとかしてください」という内容でした。当時はなぜそうなるのかわからず、落とし物と忘れ物はどうしようもない問題でした。机の中もグチャグチャでした。
 手先が不器用なことでもずいぶん苦労したし、体育もダメ、音楽もダメ……。結局、得意なものは何もないのかと感じていた頃に、新聞などで「LD」という言葉が取り上げられるようになってきました。ちょうど息子が小学校高学年の頃でしたが、そういった記事を読んで、うちの子もLDなのかと悩みながら、中学に入学し、担任の先生に相談したところ「それは判定が難しいんですよ」のひと言で片づけられてしまいました。今考えると、学校側も子どもの障がいについては十分な理解や対応ができていなかったと思います。

周囲の理解を得るために

海野  土井さんは、具体的な診断名がついたときに、そのことを担任の先生やクラスの親御さんたちに話して、わかってもらうような働きかけをされましたか?
土井  あまりにも多動だったので、私としては担任の先生やほかのお母さんたちに理解していただこうと思って、最初から発達障がいであることを伝えようと考えていました。でも、担任の先生はとてもいい先生でしたが、「変な先入観をもたれることもあるから言わないほうがいい」という判断でした。ところが、いざ学校生活がスタートすると、女の子のスカートをめくったり、触ったり、授業中もいろいろなトラブルが起こったもので、逆に先生のほうから「ほかの親御さんに伝えたほうがいいかもしれない」と話があり、1学期の愛護の保護者会でお話ししました。ほかのお母さんたちは「つらかったと思うけど、言ってもらってよかった」と言ってくれました。
 あとで本人に聞くと、スカートめくりをした女の子は可愛い花柄のパンツをはいていて、それを見たかったと言っていました。自分のパンツは普通のブリーフ型なので、可愛いパンツが見たいという単純な理由のようです。仲良くなったお母さんは「私のだったらいつでも見せてあげるわよ」と冗談を言ってくれましたが……。
 その後も何かトラブルが起こるたびに、本人には内緒で、発達障がいのあることを伝えるようにしました。それは担任が変わるたびに、そして中学校に入学してからも続けました。
海野  山口さんの場合、まわりの人への働きかけはなさいましたか?

「なぜできないんだ!」と言われ続けてきた子どもたち

海野  先ほど土井さんから「二次障がい」という言葉が出ました。二次障がいとは、発達障がいのある子どもが対人関係でうまくいかなかったりすると、気持ちがくじけたり、軽いうつ状態になることをいいます。山口さんの息子さんは、二次的に人間関係で傷ついたり、疲れきってしまったり、苦しんだりしたことはありますか?
山口  息子は何があってもケロッとしている性格で、どんなことがあっても生き抜く自信があるというか、生きることについてすごくバイタリティのある子だと感じていたので、親として安心して見ていたとことがあります。そのために細かいところを見落としている可能性もありますが、二次障がいはなかったように思います。伊藤先生にうかがったところ、二次的な障がいがみられると指摘されたこともありますが、親としては気づかずに過ぎてきてしまいました。
海野  2人のお子さんを指導した伊藤先生は、二次障がいについてどう感じていますか?
伊藤  山口さんが言われた「ケロッとした」面なんですが、カウンセラーの原先生とも話し合った結果、まさにそこが二次障がいのあらわれではないかと思っていました。
 彼の生育暦をみると、現在できないことは、これまでずっとできなかったことばかりなんです。つまり、自宅でも幼稚園でも小中高でも、いつも「なんでできないんだ」とガミガミ言われ続けてきた。それに対する処世術として「ケロッとして」「無関心をよそおって」自分を守るというか……。できないことをどうやったらできるか考える前に、最初からあきらめてしまっているような感じがします。
 そのことについて彼と話をすると、「オレの生命力はゴキブリの生命力だ」という言い方をします。彼の価値観は、何か失敗をしても「怒られなければラッキー」「見つかったら運が悪かった」の2つしかなくて、自分の努力で自分の将来を切り開いていくという意思を失っているような状態でした。
海野  二次障がいについては、授業がわからないということも、子どもにとって大きなストレスになる場合がありますが、土井さんの息子さんは、算数以外で困ったことはありますか?
土井  手先が不器用なことが大きかったですね。だから、中学のときの技術家庭科はとても困っていたようです。小学校でも図工が苦手でしたが、その頃、は友だちが手伝ってくれたり、先生のフォローなどもあって、なんとかやっていたようです。
 でも、中学の技術家庭の先生は、生徒が聞かなければ、あえて自分からは教えないというタイプの先生でした。ある日、同じクラスのお母さんの家に遊びにいったら、技術家庭で作った時計が飾ってあって、「うちの子は持ってきてないなぁ」と思っていたら、時計の土台になる板だけを持って帰ってきたんです。息子はその技術家庭の授業中、どんな思いで過ごしていたのかと考え込んでしまいました。
海野  そういう意味では、学校の先生の指導のしかたが重要になってくると思いますが、授業参加などでお子さんの様子を見ていて、何か感じたことはありますか?
土井  先ほどもふれましたが、小学校1~2年のときと5~6年のときの担任は同じ先生で、とてもいい先生でした。参観日には、なるべくうちの息子が目立たないように配慮してくれました。
 ところが、4年生のときの授業参観はまったく違っていて、教壇の上に箱がひとつ置いてあり、その箱の展開図を描くという授業でした。具体的な描き方の指導は何もありませんでした。息子は、こういう抽象的なことがとても苦手で、私のところかたも、とんでもないものを描いているのが見えました。展開図が完成したら、それをハサミで切って箱を作って、先生のところに持っていくのですが、息子はいつまでたってもできなくて……。45分間をあれほど長く感じたことはありません。息子もまわりが見えてきた時期だったので、あの授業はすごく嫌だったと言っていましたが、私も嫌な思いをしました。
海野  そうしう抽象的なものをどう教えるかについて、伊藤先生のご意見は?
伊藤  小4くらいになると、教科書で抽象概念を学んで、それを実生活で応用していくという学び方が増えてきますが、その逆のプロセスをたどらないと理解できない子もいます。とくに自閉傾向のある子は、抽象的なものと具体的なものとの往復運動が苦手なケースが多いのです。
 たとえば土井くんは、単に計算だけなら割り算もかけ残も百マス計算もものすごく速い。ところが、調理実習のときに土井くんに「1人分でタマネギ2分の1個を使います。では、6人分ではタマネギを何個使うでしょう?」と聞いても難しくてわからないんです。このような場合、図に描いてじっくり説明してあげると、「よくわかって楽しい」と言い、その後も同じような問題をいくつも解きたがるようになります。それで逆に、割り算やかけ算の概念を身につけてしまった子もいます。
 ですから、単純に成績を上げることよりも、生活の質を高めながら学習していくスタイルのほうが望ましいのかなと、私は思っています。

「苦手なことは無理強いしない」「できるだけほめる」

海野  学校生活で問題が起きたとき、親御さんだけで悩みを抱えるのはつらい面があると思いますが、身近に相談できる方はいますか?
土井  子どもが小さいときは何か変だなと思っているだけで、他人に相談すると、「どんなことを言われるんだろう」という怖さがありました。
 でも、私だけでは抱えきれない大きな問題だったし、毎日どうしたらいいかわからない悶々とした生活を送っていたので、小学校のときの担任の先生、児童相談所の相談員、小2のときからお世話になっている言語療法の先生、作業療法の先生など、いろいろな先生に支えられてやってきました。身近では、実家の母が相談相手になってくれています。
 現在は、伊藤先生にサポートしていただいており、本人も男同士なので伊藤先生にはいろいろなことが聞けるということで、毎日、学校が楽しいようです。
海野  山口さんの場合は悩み方が少し違うかもしれませんが、相談相手はいましたか?
山口  息子の場合、小さいときに療育センターの脳波検査で異常なしと言われて、小学校も通常学級に進んだので、それ以降は医療の専門機関で診察を受けたことはまったくなく、「ちょっと発達の遅れがあるなぁ」と言われる程度でここまで来てしまったわけで、身近な相談相手は夫しかいませんでした。あとは、同じクラスのお母さんたちに励まされながらやってきました。
海野  ふだんの生活の中で気をつけていたこと、心がけていたことはありますか?
土井  不得意なことは、生活に支障がないかぎり無理強いしないようにしてきました。
とくに算数が苦手なので、5点でも10点でも点がとれるようにと勉強させたこともありますが、センチやミリやリットルなどの単位もゴチャまぜにして、とんでもない答えを出したりするので、無理はさせないようにしました。発達障がい専門の先生からも、生活に結びつく学習をしたほうがいいと言われていましたので。
 本人は、いつも精神的に追い込まれてやっていたようで、私が「やめれば?」と言っても、やり続けました。見ている私のほうがつらくなるほどで、小学校高学年頃からは「やめたほうがいいよ」と言うことのほうが多かったように思います。
 そんな息子を見ていて、精神的な安定がないところで何をやっても身につかない気がしたので、気持ちの安定を図ることを最優先してきました。
 運動も苦手で、スキーやスケートも嫌がっていましたが、少しできるようになると楽しそうなので、そうしたいろいろな体験をする機会があれば、なるべく体験させるようにしてきました。
 小銭を使って買い物をすることも極力やらせてきました。ただ、最近やたらと千円札を使いたがるので、釣り銭ばかり増えてしまって、財布にはいつも小銭がいっぱい入っている状態です。
山口  頭ではわかっていても、なかなか実行できないのですが、何かを成し遂げたとき、ほめてあげるよう心がけています。どうしても同世代のほかの子たちと比べてしまい、
 「こんなことでほめる必要があるのか?」と思ってしまう部分もありますが、目標を立てて、それを達成できたときは、できるだけほめるようにしています。
※この続きは、「第2部 その子の将来を見据えた進路選択のポイント」 で読むことができます。

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