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【トークライブ】不登校の進路選択~それぞれのドラマ 第一部

2005年2月6日に開催された登進研バックアップセミナー48の第1部「不登校の進路選択~それぞれのドラマ【トークライブ】体験者が語る、私たちの選択、私たちのドラマ」の内容をまとめました。

ゲスト 矢野 花子(不登校経験をもつ女の子。現在、高校3年生)
西田 和子(わが子の不登校を経験したお母さん)
大谷 洋子(わが子の不登校を経験したお母さん)
真島 一郎(矢野花子さんの担任教師)
助言者 小澤美代子(さくら教育研究所所長)
池亀 良一(代々木カウンセリングセンター所長)
荒井 裕司(登校拒否の子どもたちの進路を考える研究会代表)
司会 海野 千細(八王子市教育委員会学校教育部学事課長)

※ゲストの方々のお名前は仮名、年齢等はセミナー開催時のものです。

第1部 不登校初期の葛藤から、かかわりの転機が訪れるまで

不登校のきっかけは?

海野 今日はゲストのお話を聞きながら、不登校の子どもたちが自分らしさを生かせるような進路を選ぶためには、何がポイントになるのかを考えてみたいと思います。まず、ゲストのみなさんに、家族構成を含めて、簡単な自己紹介をお願いします。
西田 わが家は、夫と、大学院生で24歳の息子、サポート校に通う16歳の娘の4人家族です。現在16歳の娘は、中学1年の11月に風邪をひいたのがきっかけで学校を休むようになり、その後、友だちとのいざこざなどもあって、12月から本格的に不登校になりました。それから中3までの2年3カ月間、学校に行くことができませんでした。
大谷 私の家は、夫と、23歳と21歳の娘の4人家族です。21歳の次女は、幼いときからぜんそくぎみで学校を休むことが多かったのですが、小学校4年のときから不登校になりました。原因は、担任の先生に恐怖心を抱いていたことと、仲のいい友だちが立て続けに転校してしまったという状況が重なったことかなと思っています。その後、環境を変えたいということで、夫が転勤願いを出し、スウェーデンで暮らすことになりました。これが功を奏してか、現地の学校にも楽しく通え、日本人補習校にも週1回きちんと通えるようになりました。もう大丈夫かなと思って、2年後に日本に帰ってきたのですが、日本の中学校には結局3日間しか登校できませんでした。高校はサポート校に進み、そこを無事卒業して今に至っています。
真島 現在、サポート校で3年生の担任をしている真島と申します。私が勤務するサポート校では、生徒の7、8割が中学時代に不登校だった経験をもっています。そのため、休み時間や昼休みもできるだけ教室にいて生徒たちの様子を見たり、ひとりでも多くの生徒と話をするよう心がけています。しょっちゅう教室にいるので、生徒からは「先生、職員室に居場所がないの?」(笑)などとからかわれています。矢野さんとは、彼女が1年生のときに担任としてかかわり、現在また3年生になった彼女の担任をしています。
矢野 こんにちは、矢野です。今18歳でサポート校に通っています。両親と不登校を経験した中1の妹の4人家族です。私が不登校になったのは中2の11月から中学卒業までです。友だちとトラブルがあって、怖くて教室に入れなくなったことがきっかけでした。 真島先生は若くみえるので、最初は頼りないとか思ったけど(笑)、休むと電話をくれたり、ちゃんと生徒の顔色を見て、「無理してない?」とか声をかけてくれたり、つらいときも私の気持ちをわかってくれるので、けっこう心強かったです。

この現実を受け入れられない

海野 矢野さんは、学校に行けないあいだ、どんなことを考えていましたか?
矢野 学校に行けないことは“普通”ではないわけですから、友だちにどう思われているんだろうとすごく不安だったし、勉強の遅れも不安だったし、自分はこれからどうなっちゃうんだろうということも含めて、ぜんぶが不安でした。
海野 そういう不安な気持ちをご両親に話しましたか?
矢野 両親に話すと、担任の先生に伝わって、それがクラス全員に伝わってしまって、告げ口をしたとか言われるんじゃないか、もっと状況が悪化してしまうんじゃないかと心配で、まったく話しませんでした。
海野 大谷さん、西田さん、お子さんが不登校になったとき、どんなことを感じましたか?
大谷 小学生のときはそんなに深刻に思わなかったのですが、中学生になってからは先が見えないというか、いつになったら動き出すのだろうと思うと、その「いつ」が期限のないものだけに不安でした。それから、こんな状態では娘はひとりで生きていくこともできないのではないか、親類やまわりの人にどう思われているのか、ぜんそくや体調のことも私のせいなんじゃないかとか、いろいろ考えてしまって……。
海野 ご主人は、娘さんの不登校をどう受けとめていましたか?
大谷 スウェーデンにいた頃は元気に過ごしていたのに、日本に帰ってきたとたん学校に行けなくなったことを、どうしても受け入れられないようでした。やさしい言葉のひとつもかけられず、昼近くに起きてくる娘に対して、「おはよう」ではなく、「こんにちは」とイヤ味を言ったり、娘が傷つくような言葉を平気で口にしていました。 そういうイヤ味は私自身が言われているような気になり、「どうして夫婦で一緒に背負うことができないのかな」と思っていました。ただ、夫に対して「どうして娘の気持ちがわからないの?」と思いつつ、私自身もちゃんと理解できていないところもあったし、娘が元気な頃のことを忘れてしまって、しっかり現実と向き合えず、もう一度、家族みんなで頑張ろうという気持ちになれなかったような気がします。
西田 うちの場合は、私自身が初めの頃からこの現実を受け入れられませんでした。体がおかしくなってしまうくらい、不安感とあせりと心配など、すべてのマイナスの感情に苦しめられていたように思います。世間体も気になりました。夫は私とまったく逆の考え方で、当初から「学校に行かなくてもいい。ゆくゆくは本人が解決するだろうから」と言っていました。今から思えばすばらしいことを言っていたのですが、当時はなんて冷たいことを言うんだろうと思っていました。

親の対応と子どもの思い

海野 当初、どんな対応をされましたか?
西田 不登校になってから、娘は体調がすぐれず、ほとんどソファに横になっている状態だったので、どうしていいかわからず、ただ心配してオロオロするだけでした。自分の体調もおかしくなっていましたし、何もしてあげられなかったように思います。
海野 学校に行かせようとはしなかった?
西田 心の中では、学校に行ってほしいという気持ちはあったと思います。初めの頃、一度だけ布団に寝ている娘の手をひっぱって起こそうとしたことがあります。ところが、娘の体は鉛のように重たくて、これは本当に行けないんだなあと思うようになって、それからは一切そういうことはしませんでした。
大谷 最初は「どうして行けないの?」という気持ちばかりが先に立って、原因がわかれば、なんとかなるんじゃないかといろいろ聞いたりしました。でも、本人の口からは具体的な原因のようなものは出てきませんでした。
小学校6年生の3学期にスウェーデンから帰ってきたとたんに行けなくなった頃は、毎朝、無理やり学校に行くしたくをさせて玄関から放り出していました。でも、しばらくすると玄関のドアをたたいて、「開けて! 開けて!」と家の前でずっと泣いているんです。もうこれ以上、無理強いはできないなと思いました。
海野 矢野さん、ご両親の接し方で、イヤだったこと、うれしかったことは?
矢野 お母さんが、学校でトラブルがあったことについて友だちの親に電話をしたことがあって、その友だちから「ごめんなさい」というお詫びの電話があったんです。でも、口ではそう言ってるけど、裏で何を思っているかわからない感じで、きっとクラス中に知れわたって、もっと悪い状況になるんじゃないかと心配で……。そういうことがイヤでした。
うれしかったのは、お父さんがけっこう心配してくれて、私が誰ともしゃべれない状態だったので、お父さんの会社のカウンセラーを紹介してくれたりしたことです。あと、妹は私より先に小学校3年から不登校だったんですが、夕食は家族みんなでそろって食べていました。そういう当たり前のことがうれしかったです。
海野 カウンセリングを受けさせたいけれど、子どもがイヤがるという親御さんが多いのですが、矢野さんはすんなりカウンセリングを受ける気になった?
矢野 それまではつらいことがあっても、その気持ちをノートに書いて、ひとりで耐えているようなタイプで、他人に相談したりするほうではなかったし、カウンセリングってどんなことをするのかよくわからなかったし、最初は抵抗がありました。でも、たまたま出会った先生がお姉さんのような感じで、相性がぴったりだったので、話をする気になったのかもしれません。
海野 西田さんや大谷さんのお子さんは、カウンセリングを受けていましたか?
西田 カウンセリングを受けてほしいとは思っていましたが、本人がイヤがってスクールカウンセラーに会おうとしないんです。しかたがないので、私が娘にとってカウンセラーのような存在になろうと思って、いろいろ勉強しました。
いちばん役に立ったのは、「傾聴」することです。それまで私は人の話を聴ける人間だと思っていたのですが、ぜんぜん聴いていないことに気づきました。それからは、今まであまりしゃべらなかった娘が、徐々に自分の気持ちを話してくれるようになりました。
大谷 うちの娘は教育相談室でカウンセリングを受けていましたが、そこに行きつくまでには、かなりの時間がかかりました。中1の担任だった女性の先生と相性がよくて、その先生の紹介だったから、娘も「行ってみようかな」という気持ちになったんだと思います。教育相談室に通うと、それが学校の出席日数にカウントされるという点も、娘にとっては魅力だったようです。
でも、いざ教育相談室に行ってみると、カウンセラーの先生とはぜんぜんしゃべれなくて、娘も「あの先生はイヤだ」と言うので、担任の先生に相談すると、「相性の合う先生と出会うまで、どんどん先生を変えてもかまわないから」と言われました。
それもひとつの方法かとは思いますが、気の合う先生と出会うまでの時間やプロセスを考えると、家庭内で話ができる状態なら、お母さん、お父さん、きょうだいなどが、たくさん話を聞いてあげれば、それでいいんじゃないかとも思います。実際、わが家でも私と姉がよく話を聞いてあげていました。

親だってグチを言いたい、聞いてほしい!

海野 子どもが不登校になったことで、親もとても苦しい思いをします。大谷さん、西田さんには、そういう苦しさを相談できる人、グチを聞いてくれる人はいましたか?
大谷 先ほどお話しした中1のときの担任の女性の先生が、教師と保護者という関係ではなく、母親同士という感じで接してくださって、いろいろ相談しやすかったです。
その先生の紹介で、私自身も教育相談室に相談に行くようになりました。最初は、見ず知らずのカウンセラーに自分の気持ちを話せるか不安でしたが、そういう警戒心を少しずつほぐしてくれて、そのカウンセラーの先生とも信頼関係を築くことができました。
西田 娘が不登校になった当初から中学卒業まで、週1回、中学校の相談室に通っていました。このときのスクールカウンセラーの先生が、私にとってありがたい存在で、どんなことでも聞いてくれて、本当に気が休まる時間をつくっていただいたと思っています。
地域の親の会に参加して同じ悩みをもつ仲間と交流できたことも救いになりました。不登校関係のセミナーや講演会などにも参加して、いろいろな方々の話を聞いたり、交流したりしたことが、私の支えになっていたと思います。
海野 ご主人とは話し合ったりしましたか?
西田 1、2回、不安な気持ちを話したことがありますが、ラチがあきませんでした。それ以来、相談してもムダと思い、ひとりで講演会などに出かけるようになりました。
大谷 最初、教育相談室に一緒に行こうと誘ってみたんですが、夫は「なぜ一緒に行かなければいけないんだ?」という感じで取りつく島がありませんでした。
今にして思えば、スウェーデンに赴任したとき、夫の職場は現地の人ばかりで、日本人は夫ひとりでした。夫は夫で大変だったのでしょう。当時、私は娘のほうしか見ていなかったので、夫の大変さが見えていなかったところがあると思います。
池亀 西田さん、大谷さんのお話を聞いて、おふたりにとって自分の気持ちを聴いてくれるカウンセラーと出会えたことは大きかったのかなと思います。お母さん自身の不安やあせりを解消すること、お母さんの気持ちが少しでもラクになることが、お子さんの気持ちをリラックスさせることにもつながっていったのだと思います。

かかわりの転機になったこと

海野 親として、かかわり方の“転機”のようなものはありましたか?
西田 中学校のスクールカウンセラーのところに毎週通っていた頃、娘ではなく、私自身のことについてじっくり話をする機会がありました。そのとき、私は自己肯定感が低く、自信がなくて、すごく心配性であることを話しました。
それから5カ月くらいして、突然、疲れて倒れてしまったんですが、それをきっかけにして、「私は私で大変なんだ」と思えるようになったのです。いわゆる自己受容ということだと思います。それからは考え方がガラッと変わって、今まで自分を責めていたことや、娘を責めていたことも受け入れられるようになりました。とくに娘に対しては、立ち直る日が来るまで待っていようと思えるようになりました。これもカウンセリングを受けていたからこそだと思います。
もうひとつは、ある日、娘が下痢をしていたのでおかゆを作ってあげて、残ったおかゆを私が食べていたときのことです。突然、温かい空気に包まれるような、自分の母親に包まれているような、とても幸せな一瞬が訪れました。涙があふれてきて、娘の前で涙を見せるのが恥ずかしいので、洗面所に行ってうれし泣きしたことを覚えています。
大谷 私の場合、突然変わったということはありませんが、家族で受けとめられるようになったのは、みんなで散歩をするようになってからかもしれません。
海野 家族みんなで散歩をしていたんですか?
大谷 ええ。娘は、家から半径3キロ以上のところには出かけようとしないので、運動不足解消のために外に連れ出そうとしたのがきっかけです。
散歩中も、娘は夫とまったく話をしませんでしたが、ちょっとしたアクシデントが幸いして自然にしゃべれるようになったんです。そのとき、今までやってきたことは間違っていなかったんだと思えました。そして、娘のことは私ひとりで背負っているんじゃないんだと思えてきて、気持ちがラクになったような気がします。
海野 ちょっとしたアクシデントとは?
大谷 散歩のときは、娘と夫のあいだに私がはさまるような感じで歩いていて、夫が何かしゃべると、私が「~なんだって」と娘に伝えるという、通訳みたいな役割をしていました。
ある日、散歩に行こうとしたら、ちょうど電話がかかってきて、私が電話を取りながら、娘と夫に「先に行ってて」と言ったことがありました。ふたりとも「えっ?!」とすごい顔をしていましたが、しぶしぶ先に出ていって、それ以来、自然に話せるようになっていきました。そのとき夫は、「スウェーデンではお父さんもいろいろ大変だったんだよ」という話をしたようです。

不登校中、家で勉強はした?

海野 学校を休んでいるあいだ、勉強はどうしていましたか?
矢野 保健室登校ができるようになってからは、友だちがプリントを持ってきてくれるようになったので、それを見たり、定期テストの前にちょこっと勉強する程度で、家ではほとんどやりませんでした。両親から「英語と数学だけはしっかりやりなさい」とよく言われましたが、頭の中がいろんなことでいっぱいで、それに妹が不登校だったこともあって、雰囲気的にも家で勉強できる状態ではありませんでした。
西田 私の娘も中2のときまでは、「勉強の話は聞きたくない。高校には絶対に行かない」と言っていました。
中3の春頃から変化があり、5月から市の適応指導教室に通いはじめました。不登校の子どものための「ホームスタディ」という市の制度を利用して、週2回、家庭教師の方に来てもらい、英語と数学の勉強もするようになりました。ただ、これは本人にとってはつらかったようで、キャンセルすることも多々ありました。
大谷 最初は私が勉強をみたり、塾の先生や担任に相談したりしましたが、結局、本人がやる気にならなければ、頭に入らないだろうと思っていました。だから、面白い本をすすめたりはしましたが、勉強については特別に何をさせたわけでもありません。
スウェーデンでの2年間で学んだことは、余暇を充実して過ごすということでした。働くことと遊ぶことの上手な切り替え方とか、子どもが生きていく力を身につけさせることに教育の重点が置かれていたように思います。スウェーデンでは、高校を卒業した若者が何年か働いてお金を貯めて、それから大学に行くケースも見てきたので、スムーズに階段を上っていくような人生だけじゃないんだと知りました。だから娘にも、たくましく生きる力を身につけてほしいと思っていました。でも、日本に帰ってくると、そんなことはすっかり忘れてしまい、またまた娘の不登校に直面して右往左往していました。
海野 小澤先生、勉強の遅れについてはどのようにお考えですか?
小澤 私も、よく親御さんから「勉強をしないで大丈夫ですか」と聞かれます。この答えは、大きく分けて2つあるように思います。
ひとつは、小学校1~3年くらいの早い時期から不登校になって長期化した場合で、こういうケースでは、いわゆる読み書きソロバン、つまり基礎的な国語力や算数の加減乗除の部分が抜け落ちてしまいます。最低でもその部分については、20歳くらいまでにどこかでフォローしてあげる必要があると思います。その部分が欠落したまま社会に出ると、さまざまなかたちで不自由さを味わうことになるからです。
一方、小学校4年生以降に不登校になった場合は、「学習面は大丈夫ですよ」と申し上げています。中学校を卒業するまで学校に行けなくて、高校に入学し、それから頑張って今までの遅れを取り戻したお子さんもいますので、小学校4年生くらいの基礎学力があれば、かなりのブランクがあっても、ごく短い期間で穴埋めできると思います。
海野 真島先生、サポート校では、学力的に抜け落ちている部分のある生徒たちに対してどんなフォローをされていますか?
真島 私の勤務するサポート校では、入学時に「基礎学力試験」を実施して本人の進度を把握し、その子の状況に合ったフォローを行うようにしています。
たとえば、数学の授業では、教員が作成したオリジナルのテキストを使って、小中学校の復習をします。数学が苦手で、ほとんどゼロから始めなければならない生徒でも、足し算・引き算、分数・少数など、小学校の算数の基礎から学び直すことができます。
数学が得意な生徒でも不登校によって意外に抜け落ちているところがあるので、まずは小中学校の復習をサラッとやって、その後、高校レベルの内容へ進み、さらに大学受験に必要なレベルまでサポートするようにしています。
それによって、入学時には「-5+2」の計算ができなかった生徒が、大学の一般入試に合格するといった例もたくさんあります。

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